先日、「桐生石」と「群馬石」という新鉱物発見のニュースが上毛新聞のトップ記事になり、桐生市梅田町の名前が県内に知れ渡った。

 梅田町は、市内から車で北へ15分ほどの梅田キュウリを生産している農地から始まる。西に桐生アルプスの山並みを見ながら桐生川を東にして北上し、家庭菜園や自然豊かな里山を通って桐生川ダムを越えて山間部に入る。ふるさとセンターを通り、根本山の登山道入り口まで、南北に15キロ、標高差が450メートル以上ある、地形上も多様性に富んだ地域である。

 この梅田町には、農林業と併せてかつては鉱業も発達していた。

 江戸時代頃から本格的に桐生川源流部に入植が始まり、自給自足の農業をしながら、養蚕とナラなどから薪炭材を生産して現金収入を得ていた。多様な地質のある梅田町の桐生川右岸には石灰層があり、明治から大正にかけて、足尾銅山に供給するための石灰の採掘が行われた。

 ガスが普及する燃料革命の昭和30年代になるまで、燃材生産の林業が営まれながら、スギやヒノキを植えて木材を生産する林業も発展させてきた。梅田町にはマンガンが出る地層も点在していることから、昭和30~50年代にかけてはマンガン鉱を見つけて採掘が行われていた。

 私なりに梅田町の栄枯盛衰と今後について考察した。

 大正時代から昭和50年代まで、森林伐採と鉱物資源採掘のために出稼ぎをする人が住んでいた時代があった。山奥でありながら人口が多く、活発な経済活動があり、繁栄していたと言われている。今は廃村となっている桐生川最上流部の上藤生集落では水力発電がいち早く導入され、他よりも早く電気が使えたという話や、石鴨集落の祭りでは背広を着ている人がいるくらいハイカラな地域だったという話を聞く。

 薪炭生産や鉱物採掘、木材生産といった産業で栄華を誇った地域だったが、採掘が終わり、木材価格が下落して以降、山村の不便さから人が去った。現在は過疎高齢化が著しく、消滅を待つような状態である。しかし、これまで積み重ねてきた歴史文化がまだ息づいている。

 私が梅田町5丁目で仕事を始め、梅田町の森林や地域事情を発信してから、桐生川流域の高校生や東京圏の大学生、県内企業などいろいろな人が訪ねてきてくれる。ここに来る動機はさまざまだが、梅田町の魅力に引かれていることは確かだ。その魅力の源は、多様性から生まれた歴史文化であり、実際に知るともっと関わりたいという気持ちになってくれることを実感している。

 このような関わりを大切にし、関係を持ち続けてもらうことで新たなコミュニティーが形成され、この地域の新たな繁栄につながっていくと信じている。

 【略歴】青年海外協力隊で植林に携わり、帰国後に海外林業コンサルタンツ協会入社。2021年、合同会社バリュー・フォレストを設立。前橋女子高―岩手大農学部卒。